コニー・フランシス:My Happiness
コニー・フランシスが前記事に出て来たので、またまた・・・
コニー・フランシスの2曲目のミリオンセラーヒット曲は[My Happiness] だ。作曲者はイタリア系のBorneyBargartineによって1931年に作られた。自分のオーケストラ・バンドHappiness Boy'sの為に作られた様で、出版されたのは1948年。エルヴィス・プレスリーもコニー以前にレコーディングしている。
略歴:プレスリーは1935年1月8日、ミッシシッピ州テユペロ生まれ。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりに与えられたのがギターであった。これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していった。
プレスリーが13歳の時にテネシー州メンフィスに引っ越した。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。この事が後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。プレスリーは高校卒業後、クラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていた。
1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えば「リズム&ブルース」に、白人が歌えば「カントリー&ウェスターン」に分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。1953年の夏にプレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ盤を4ドルを支払い録音した。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” であった。
1954年19歳の7月のリハーサル休憩中にプレスリーは “That’s All Right, Mama” をいじくり始め、サムはプレスリーが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面にカントリー曲 “Blue Moon of Kentucky” が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。初期のロックンロールはカントリー曲(Hillybilly)も多く、故にロッカビリーと言われた。また、公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。その後のRock'nRoll旋風は、ご存知の通り。
●そのエルヴィスの初レコーディング曲(1953年7月メンフィス・SUN RECORD)
コニーは矢張りバラード調の曲が合っていて抜群に上手いな~。
彼女のCDは「カントリーヒットを唄う」を持っているが、これも上出来だ。